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執筆者の写真neki neki

蒲鉾屋さん

私の初バイトは、自宅の蒲鉾屋にて。 これが、結構過酷であった。 自宅だからって、もちろん甘えが許されない。 食べ物屋さんなので、不潔はもちろん許されない。 抜けた髪の毛が、食べ物に入ってしまわないようにし、 手を清潔にする。

その辺は、わきまえていた。 しかし、実際にお店に立ったのは、ある高校生の夏の日。 この日初めて。 お客さんが、こんなにわがままだとは思わんかった。

いつも穏やかな五条通りが、戦いの場になる陶器祭である。 私は、自宅なのに、1人じゃ不安やったので、友達を誘った。 友達と二人で、お店番をする事になった。

タイムカードを作ってもらい、友達は朝9時にガチャンと記録する。 私は、自宅なので、残念な事に、朝御飯を食べたら、 すぐにガチャンであった。

ゆっくりする時間がない。 朝から、すでにお客さんは、行列を作っている。 お店では、天ぷら類を朝に揚げる為、揚げたてを食べたいのだろう。 ビニールが溶けそうな位、熱いのである。 もちろん、ビニールには入れられない。 紙袋にドサドサ放り込んでいく。 それを、真夏の暑い時期に、注文を聞いては、袋に入れ、 代金をいただき、 「ありがとうございましたー!」と笑顔で言う。 これのくり返し。

住み慣れた東京では、あまり見ないが、関西の方ではイラチが多い。 陶器祭の日は、大阪や奈良等遠方からのお客さんも来られ、大賑わい。 特に、大阪のおばちゃん(残念な事にいつもハプニングが あるのはそうなのだ)が、横から割り込んで入ってきて、 「ねえちゃん、ねえちゃん!」と攻める。 この攻撃に、耐えるのが大変であった。

まだ揚がってないものを「欲しい!」と言い、 売り切れたものを「欲しい!」と言う。 そして、差し出されるお金は、決まって1万円札なのだ。 「ごめんなぁ~大きいのしかないねん~」と一言あれば、 ま、仕方ない…と思えるのだが、 財布の中身が見える状態で探り、千円札もあるのに、出さない。 そんで、お釣を出すのに、モタモタしてると怒られる。

こんな過酷な仕事は、他にはない。 ウチには、合わへん!とその時思った。 テンポが違いすぎる。

イチャもんをつけてきたり、喧嘩をしかけてくるのは、 なぜか決まって大阪のおばちゃんであった。 お客さまは、神様ではあるが、若い私には、耐えられず、 売られた喧嘩を買う事もあった。そして、両親に呆れられるのである。

温和な友達も、次第にキレそうになっていた。 辞めたくなるのだが、たった4日間の仕事である。 過酷ではあるが、二人で我慢した。

ウチのお店番は、なぜおばちゃんがやってるのか? 何となくわかる気がした。

しかし、その4日間だけでは済まなかった。 専門学校を1年で辞めたのだが、 その後の1年間、ひたすら我慢して お店番をしたのだ。上京するため。

人間、手に届きそうな目標が、目の前にある時は、 少し位の我慢はできるのである。 その年の夏、やっぱり、大阪のおばちゃんは、 私に喧嘩を仕掛けに来た。 まるで、嫁いびりに遭うてるかのようであった。 半泣きになりながら、我慢し、夏を乗り越え、秋に上京したのだった。

よく考えてみると、ウチで製造して、販売もして、発送もして… 小さく狭い我が家で、それをやってるんやから、凄い事かもしれない。

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