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執筆者の写真neki neki

バイト遍歴1

全部は、思い出せないかも?という位、 ありとあらゆるバイトに手を出している。 蒲鉾屋さんである我が家の話は、別でしたので、置いておく。

専門学校の時、新しく喫茶店がオープンすると言うので、 滋賀県大津市まで研修を受けに行き、修学旅行のメッカである 新京極の中でバイトをした事がある。 オーダーを聞き、運ぶというウエイトレスである。 ファッションビルの一角に、小さな空間があり、 POPなイメージの店内、天井から、ブラウン管がぶら下がっていて、 壁にも小さなTVが設置され、ず~っとMTVが流れていた。

アロハ地のスカートに、白いポロシャツ、可愛いエプロンをし、 頭にもそれなりのカチューシャのようなものをつけ、 ちょっと可愛いユニホーム。

しかし、場所が良くなかった。 そして、提供していた食べ物もあまり美味しくなかった。

オープンより3日程は、お客さんが入ったのだが、 すぐに閑古鳥が鳴いた。 暇なお仕事は、昔から苦手である。 立ち仕事で、暇だと、しようがない。 しかし、見映えを大切にしていたお店なので、フラフラできなかった。 辛かった。

友達に宣伝したりして、営業もするようになったが、 友達にも場所がいまいち~とか、何か暗いね~とか、 さんざん言われ、もっともだ~!と思い、辞める事にした。

オープンから関わったのは、初めてだったので、 何とかしたい気持ちが大きかったのだが、 友達が、先に辞めてしまい、どんどんスタッフが少なくなっていき、 心細くなってしまったのだった。

そして、数カ月後、お店はなくなってしまった。あらら・・・

これから先のバイトの時期までは、詳細に思い出せないので、順不同。

イベントの企画会社。ウチの隣にあった。 2つの会社が、同じ空間で動いていた。 当時、25才でお金持ちやった社長と、同じく25才の専務と私という 3人だけの何とも妙な会社。事務ワーク最初の仕事だった。 もう1つの会社は、カタログ等のデザインを手掛けている会社だった。

まず、電話の応対の仕方を教えてもらい、お客さんが来はったら、 お茶を出し…という典型的なのだが、電話の相手も、お客さんも、 皆さん、とてもラフなのだ。 堅苦しい所が一つもなく、ちょっと変わっていた。 とても時間があって、パソコン教室にも通わせてもらった。 これがきっかけで、ワープロ検定というものを受ける事も できたのだが…

そこで、今でも忘れられない仕事は、いす作りである。 「京都のあるでっかい体育館に、どれだけ椅子が置けるのか? を知りたいから、よしみちゃん、この画用紙で椅子作って~」 と。 何をするんやろ?と不思議な顔をしていたら、 「そこで、椅子取りゲームするねん」と。 ハハハ!又、そんな大掛かりな・・・

そうなんです。 でっかい体育館で、でっかい規模の椅子取りゲームをしよう! という企画やったらしい。 私は、話を聞いて「私もやりたい~!」と思ってしまい、 どんどん首を突っ込んでいった。

体育館は、これで…と、画用紙をもらう。 体育館の面積を教えてもらい、計算し、大まかな椅子の大きさを出す。 さて、それからは、アホのように、色紙を切る、切る、切る。 電話が鳴ったら、出なきゃいけないのだが、その頃は、 スタッフが増えて、他の人がやってくれた。

私は、ひたすら色紙で、椅子を切る。 切った後、スペースを適当に取って置き、大体の椅子の数を出した。 今やったら、パソコンでヒョイヒョイできるお仕事かもしれないが、 私は、アナログ人間。楽しかったのだ。

社長に、その数を言うと、「ふ~む、あっそう、御苦労さん」 それだけしか言われなかった。どういうこっちゃ??

結局、そのイベントは、行われなかったのである。 腑抜け状態になってしまい、しばらくハサミを持つのが嫌になった。

社長自身は、美容室のプロデュースをしたり、 京都の写真週刊誌を書いたり、 忙しそうやけど、私は暇でしょうがない。 家が隣という事もあり、休日も姿を見る事がしばしばあった。

当時、私はまだピチピチ女子の時代。五条通を横断する時、 よく走っていた。 チョコチョコ動くのが好きやった。 その様子を車の中から見られていたらしく、 「バンビ吉田」と名付けられてしまった。 走りっぷりが、身軽やったらしい。

後半、私もお手伝いさせてもらった写真週刊誌(FRIDAYの京都版) の編集に携わった人の名前の並びに「バンビ吉田」 と載せられてしまう。

遊びのような仕事であった。 芸術肌やったあの社長、どないしてはるんやろ??

後に、私が上々に入った時、もう1つの方の会社の人の耳に入った。 上々に入った頃のマネージャーが、この会社によく出入りしていた らしい。 そして、上々の音楽も流れていたらしい。 私は、憂歌団とマンハッタントランスファーしか覚えてない。 さんざん流れていたのは、憂歌団やった。 一生懸命、色紙を切っていたので、全然記憶にないのだが…

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