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執筆者の写真neki neki

エレクトーン

私は、物心がつく頃から鍵盤と付き合っている。 左腕を何とかしようと、両親は懸命やったに違いない。 お陰さまで、音楽は大好きである。

習って間も無い頃、ウチの父が、メトロノームを買いに 楽器屋さんへ連れてってくれた。 その時、お店で綺麗なお姉さんが、巧みにエレクトーンを操っていたらしい。 じぃ~~~っと見ていて、帰ってから、母に興奮気味に話したらしい。 「あんなお姉さんみたいになりたい」と言うたかどうか?

そう、ちいちゃい頃から、人前で弾くのが夢やった。 しかし、職業名がわからんから、卒業文集には、 「エレクトーンの先生になりたい」と書いたと思う。 違うのだ!先生なんかやないのだが…

小学校4年生頃まで、家に先生が教えに来てくれてはった。 こう書くと、お嬢様のようやな~オホホ そうではない。 割りと、スパルタ的な教え方をされる先生だった。 宿題をしないと、ガンガン叱られる。 弾けないと、泣くまで叱られる。 鍵盤の上に涙が落ちて、滑って弾けなかった事もある。

4年生にもなると、友達も習ってるという話を聞くようになる。 私は、毎週うんざりしていた。 レッスンを辞めるという知恵はなかったので、ひたすら続けていた。 しかし、友達は毎週レッスンが楽しいと言う。 どんなレッスンを受けてるのか?見学に行ってみよう! という訳で、グループレッスンを受けてる友達のクラスへ行ってみた。

楽しい。歌を歌ったりなんかして、リズムで遊んだりなんかして、 楽しいやないの?何やの?この違いは! 間もなく、そちらに移行する。

それからは、レッスンへ行くのが楽しくてしょうがなくなる。 毎回、どんな事でも、めちゃくちゃ褒められるのである。 これに気を良くした私は、一生懸命練習した。 練習を練習と思わず、ほんまに楽しかったのだ。

すると、ある日、YAMAHAのお偉い先生からお呼び出し。 作曲の先生に就く事になった。 レッスン中、ちょっとした曲を書く事はあったけど、 専門的に勉強しなさいって言われ、別のレッスンを受ける事になった。

それが大変やった。 今で言う、音楽理論をコンコンと勉強するのである。 周りは、中学生や高校生なので、アホな私は全然ついていけない。 話してる内容すらわからん。

作曲の先生は、「よしみ、よしみ~」と、とても馴れ馴れしい。 今思えば、あの時、わからんかった事をわかるまで 説明を受けておけば、後々苦労する事はなかったのだが… 先生が嫌いやった。

月謝が勿体無いので、途中でやめた。 それからは、コンクールに出る為に、曲を書いたり、 アレンジしたりの日々。 中学校のクラブより、エレクトーンを弾いてる方が楽しかったので、 当時人気やったテニス部に入ったが、 音楽できなくなってしまったので、クラブの方を辞めた。

こんな理由に、部の先輩方の怒りは治まらなかった。 先輩達に囲まれ、私とペアを組んだ相手には何ていうの?とか あの子を独りにしちゃ可哀想やから、考え直せって、 さんざん責められた。

波瀾の末、思う存分弾く事の楽しみを味わえるようになったのだが、 当時のエレクトーンの先生は、私を音大に入れようと熱心で、 ピアノのレッスンに来なさいって、頻繁に言われ続けた。

そんな中、高校生になると、面白くなくなってしまい、 エレクトーンを辞めてしまった。 他にしたい事が見つかったのだ。

しかし、高校3年の最後、エレクトーンのライブを見て、又、 フツフツ湧いてきてしまった。 親にわがままを言うて、レッスンに通う事にした。 私は、ブランクの間も家で好きな曲を弾いていたので、 腕は落ちていなかったようだ。

2年弱通う中、先生を追いこしてしまった。 先生の演奏が凄いと思わなくなってしまったのだ。

「東京へ行きたい」 本当は、高校を卒業したら、東京の大学へ進学したかったのだが、 両親の猛反対の末、勉強したかった1部を専門学校で補う事にし、 京都に居残った。

しかし、やっぱり第一線のプレイヤーの演奏を見たい! と思い、1年半、黙々と働き、お金をためた。 目標金額に達成した所で、オーディションを受けに上京した。 勝手に受け、合格し、合格したので本格的に上京した。

いよいよ、エレクトーンで御飯を食べていく道へまっしぐらなのだが、 理想と現実は、えらくかけ離れたものだった。 念願のデモンストレーターの採用試験まで受け、 「やる気マンマンです~」って言えば、合格したのに (ここまで来るとそんなもの) 何か違う…って思い始めた時期やった為、不合格になってしまった。

こんなに長い間見ていた夢やったのに、何でやろ?? 一応、その後、エレクトーン奏者として御飯は食べていたが、 ある日、一緒に仕事をした人の様子を陰から見ていて、 「やっぱり違う」って思ってしまった。 私のエレクトーン寿命は、ここまでだった。

さんざん付き合ってきたのに、何で今まで気付かんかったんやろ? とまで思った。楽器に恋でもしてたんやろか? 非常にのめり込んでいたようである。 熱が冷めると、次の行動へ移るのも早かった。 すぐに楽器を売り、エレピを友達から1万円でいただく。 結局、ピアノへGOなのである。

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